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慶長七年(1602年)臼杵城城主、稲葉一通公が、小倉城主である細川忠興公の姫君を正室に迎えるため、その菩提寺として建立されました。

その姫の名は「たら」徳雲院殿と申し、母親は細川ガラシャ(明智光秀公の娘)です。

また、世界中に仏舎利塔を建立した、藤井日達上人が出家された寺院でもあります。

 

皆様と一緒に心を学べる、祈りと癒やしのお寺を目指します。気軽に遊びにきて下さい。

法音寺 有縁の偉人たち

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​​細川ガラシャ

 

戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。

明智光秀の三女で小倉城主、細川忠興正室

キリスト教徒キリシタン)。

子に、於長(おちょう:前野景定正室)、忠隆興秋忠利多羅(たら:稲葉一通室)などがいる。

明治期にキリスト教徒などが彼女の洗礼名をとって「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれる場合が多い。

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​​藤井日達 上人

 

大分県の臼杵農学校に学び、1903年(明治36年)に臼杵の日蓮宗法音寺にて出家1912年大正元年)日蓮宗大学(現在の立正大学)入学。

 

さらに浄土宗大学院、真言宗学林、法隆寺勤学院、真言宗連合大学、臨済宗建仁寺僧堂にて学ぶ。

1918年(大正7年)10月、旧満州の遼陽に最初の日本山妙法寺を建立、日本国内では1924年(大正13年)に最初の日本山妙法寺を、静岡県富士市田子の浦に建立する。

1930年(昭和5年)にインドに渡り、1933年(昭和8年)ガーンディーと出会い、非暴力主義に共鳴。

第二次世界大戦後は、不殺生、非武装、核廃絶を唱えて平和運動を展開。1954年(昭和29年)、ネルー首相より贈られた仏舎利を納めた仏舎利塔を、熊本駅裏の花岡山山頂に建設。

1957年(昭和32年)にネルー首相と会見。また「世界宗教者平和会議」や「世界平和会議」の開催にも尽力した。

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​​日名子実三(ひなごじつぞう)

 

5人兄弟の末子として誕生。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を卒業後、親の勧めで慶應義塾大学理財科に進学したものの程なく中退。

その翌年1913年(大正2年)、東京美術学校彫刻家塑造部へと入学し首席で卒業。

学生時代から朝倉文夫の弟子として学び、1919年(大正8年)には作品「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、世間的にも認知されるようになったが、1925年(大正14年)に作品の方向性の違いから独立することを選び、斉藤素巌と共に構造社を結成。

1931年(昭和6年)には、漢文学者内野台嶺らの発案を基に八咫烏を題材に、大日本蹴球協会の「シンボルマーク」を手がける。

これは大日本蹴球協会の後身である日本サッカー協会にも受け継がれ、

またこのマークを基に作られた「日本代表エンブレム」は、サッカー日本代表のユニフォーム等に使用されている。

​法音寺の三光堂を設計した。

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